2009年6月21日日曜日

ゆったり生きる

「ゆったり過ごす」「ゆったり生きる」ということとはどういうことかを考えてみる。

「これまでの20年とこれからの20年」

中島みゆきの歌「ヘッドライト・テールライト」の一節
行く先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは あどけない夢 ヘッドライト・テールライト 
旅はまだ終わらない

69歳になった今、
思うのは これまでの20年とこれからの20年では全く違う人生であろうこと。
これからは20年もない可能性も強く、
これを思ってしまうと寂しくもなるが紛れもない現実である。
悠々自適なる言葉あり。
リタイヤして、時間はたっぷり、好きなことができる人を羨ましがって使われることが多い。
そのためか、言われる方は何となく面はゆい感じで、「はい、そうです」とも言い切れず、
「まぁ」とか 「いや、それほどでも」とか言葉を濁すことが多いのではないだろうか・・・
大辞林などを引いてみる・・・
悠々自適:「世俗を離れて安楽に暮らす」:このフレーズには違和感あり。
悠々:「ゆったりとして急がない様子」「ゆとりがあって危なげない様子」:これがぴったり
自適:「他のことに心をわずらわされず、気のおもむくままに、のんびり暮らすこと」
悠然:落ち着いてゆったりとしている様 泰然自若:少しも物事にに動じない様

伊集院静 時間のとらえ方
若い時の時間は一日や一週間、一ヶ月が鮮やかに目の前にあり、
その時間の中で喜怒哀楽を感じ、 笑い、泣き、悩んだりする。
誰も若いときは目の前のものが全てに見える。
しかし、それが歳月を重ねることでさまざまな喜び哀しみを経験し、
今日の前を通り過ぎようとしている時間が柔らかくしなやかになるのだろう。
人間の暮らしは嬉しいことと切ないことを計ってみると切ないことが多いのは、どうも必然らしい。
幸せの形は似ているが、哀しみはみな違っている。それでも哀しみは柔らかくなる。

探偵小説の謎解きの筋道を立てるがごとく、目標設定をきちんと行い、
論理的検証も行って その達成のために進むべき方向をしっかり定めて邁進する。
それを基点に拡大展開させていくのがこれまでのやり方。
その路線に乗らない場合は速やかに修正を加えて進めるのが正しく賢いやり方だった。
そうでなければいけなかった。
これと決めたらトコトンやって人並以上のレベルに達するをもって良しとしてきた。
しかし、人生にはそれでも行かねばならぬ定まらない路もあれば、
渾沌の中で生きていくことが必要なことの方が多いのかもしれぬ。
その路を歩む方がより豊かな人生なのかもしれない。
涙の数だけ、挫折の数だけ人は豊かになれる。

「ゆったり暮らす」ことは歳相応に生き方を変えていくこと
いつまでも今やれていることがいまのまま進んでいくことはない・・・
それがどんな形で来るのかは想像できないけれど・・・
いつの日かできなくなるときが必ずやって来る。
残りの人生を豊かならしめるには、何事もあるがままを善しとして受け入れる(受け止める)
相性が悪いと思われる人がいる、なにかと勘に障る人がいる・・・
皮肉なことに、往々にしてそれは自分の心の問題であることが多いらしく、
自分の姿を映していて、嫌な自分を見ているからこそかもしれないのだ。
さらには、判断するにしろ相手を見るにしろ、
全てはこれまでの自分の経験や価値基準によるわけで、
その見方(前後左右、縦横斜め)を変えれば、価値も善悪さえも一変してしまうことだって
容易に考えられるのである。
自分の意にそぐわない対応や状況も、心地よいものも、そうでないものも、
一見、道理に合わないと思われることも、心静かに善いところを見守るように努めてみる。
やりたいことができなくなることにも 苛々せず、怒らず、腹を立てず、焦らず、がつがつせず、
ゆったりと生きる・・・
もう、そうしても良い、そうすべき年齢になってきたことを認識すべきなのかもしれない。
しかし、仙人のごとく達観しきってしまうのもつまらないし、どうかとも思う。
そう、「悠々かつ、しなやかに生きる」(柔軟で弾力に富む。たおやかで優美)
「いつも穏やかで柔らかな顔をしている」をこれからの「生きるよすが」とするか・・・・


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