2009年6月7日日曜日

初めての観能


3月半ば、国立能楽堂に長山桂三の「道成寺」を観に行った。(写真撮影は禁止。ただし、開演前ならOKである。)
能舞台の周りに設置された「見所」の配置も独特なもので、開演前・休憩時間にあちこちに身を置いてみたが
場所によって見え方ががらっと変わり、なかなかに面白い。
この後観能の機会があったら、場所を変えてみることもいいかなと思えた。

さて、この観能でどんなことにどれだけ感応できるかな・・・?


さて、今回の演目は能は「田村」と「道成寺」。能と能の間に狂言「樋(かけい)の酒」、この他に「仕舞い」が数曲。 「仕舞い」については今回はついて行けず終い。
能「田村」も、事前に物語の概要は少々つかんではいったものの、悲しいかな観能力のなさを痛感。
狂言は言葉も仕草もわかりやすく、能と組み合わせることが、その日の全体構成上極めて重要で、なるほどと思わせてくれた。


そして、「道成寺」。
大鐘などの仕掛けもあり、初心者でも楽しめるだろう・・・との思い。
(物語の筋はここで敢えて書き記すこともなかろうと思うので省略。)
*左は販売もしていたDVD写真


最も印象に残ったのは、道成寺でのみ舞われるという乱拍子」
小鼓方の「多彩な掛け声」と鋭い小鼓の音、その間合い。それに呼応する
「シテ」の身の捌きと足捌き(特に爪先)が絶妙ですっかり魅せられた。
紹介文には「丁々発止、緊張感あふれる掛け合い」とあるがまさにそれ。
また、蛇体の鬼女が僧達の祈りに追いつめられ川へ飛び込む時の姿も印象的。
登場人物の大半が、摺り足での静かな動き・動作が多い中、際立って見えた。



また、能全体を通して感ずる「独特の摺り足の静かな動き」。
「腰を沈めた立ち姿、爪先が不自然に動かない足の甲の美しさ」、
そして何と言っても「頭の位置が微動だにしない(上下しない)歩行術」。
どれ一つとっても、
厳しい鍛練でしか得られないと思われる見事な身の捌きだった。



まぁ、超初心者のそれも最初の観能としては、こんなところか。


一番の収穫はと言えば・・・
理由は定かではないが、この不思議な世界にちょっとだけ嵌り始め、また再び「能を観てみたい」という気になったこと。





「道成寺」については10ページを割いて
その「あらすじ」や「シテ方」「ワキ方」「笛方」「小鼓方」「大鼓方」
「太鼓方」「狂言方」「後見」それぞれの立場からの「道成寺」が語られている
「あらすじで読む名作能50」(ほたるの本、監修:多田富雄)が興味深い。
が、・・・・
いまのところ、表面的な理解しかできてはいないのが残念なところ・・・


最後に、本書の序章(はじめに)からの引用です。


能は演劇とはいっても西洋の劇のようにいろいろな登場人物が現れるわけではない。
一般にはシテと呼ばれる主役一人の演技で舞台が進行するのが普通だ。
シテを呼び出したり、聞き役になったりするワキという役と、
時にシテと一緒に演技するツレなど限られた人物しか舞台に現れない。
しかも登場人物たちの対立や葛藤によって事件が進行するのではない。
多くの場合、事件はすでに済んで、登場人物はそれを思い出しているに過ぎないのだ。
しかもシテの多くは、もはやこの世にいない人、つまり幽霊なのである。
・・・・・
舞台の右手にある橋掛かりは文字通りあの世からこの世に繋がる橋なのだ。
この橋を通って、この世に執心を残した幽霊が現れ、嘗て起こった事件の全てを仕方話で物語る。
・・・・
フランスの作家ポール・クローデルは、
「能では何かが起こるのではなく、何者かが現れる」という意味のことを書いている。
これほど能を的確に表現した言葉を私は知らない。
「現れる」という言葉には二重の意味が隠されている。「現れる」と「顕れる」である。
能の劇中に「現れる者」は「何ものかを顕す人」なのである。
・・・「現れる人」、「顕れるもの」の期待と予感を感じさせることができれば、能なる演劇は成功である。

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