日本独特の演劇として「能」があることくらいは知っていた。
しかし白状すれば古来の演劇の代表格である「歌舞伎」との本質的な違いは何かもわかっていない
超初心者である。
せりふは文語体、謡曲(うたい)はお経みたいで何を言っているのか分からない。
しかもゆったりしたテンポで動きも少なく眠くなるのは必定・・・・
でも、そんなことでは折角の機会が「もったいない」ではないか・・・・
そんな訳で、所謂「能の入門書」のしかも序章部分を覗いてみることにした。
その名も「これならわかる、能の面白さ」(著:林 望)
序章;「能楽という奇跡」
私なりにポイントを拾ってみると
(1)能という演劇には「演出家」がいない。
(2)*主役の「シテ」、シテが連れて来るのが「ツレ」
*脇役の「ワキ」、ワキが連れて来るのが「ワキツレ」
*その他に「地謡(じうたい)」「囃子方(はやし)」
*能の中で狂言を演ずる(間狂言)のが「アイ」
(3)全てに君臨し演出、振付け、演技とを全て一身に兼ねる主役が「シテ」でオールマイティの存在。
「シテ」という呼び方は「す」というサ変動詞の連用形「シ」に、
「〜する者」という意味での「手」が接合したもので、「舞い手、語り手」などというときの「手」である。
されば「シテ」というのは「する人」という意味で、能という芸能を「する」のは、ただこのシテ一人に集約されているのだと言ってよい。
シテ方には、なにもかもこなせる技量と見識、それに君臨するものとしてのカリスマが要求される。
(4)「ワキ」という役目は、文字通り脇にいる人ということであって、
いわば傍観者というほどの意味である。
しかもこれらを演じる能楽師はシテ方、ワキ方、狂言方の三つに分かれ、
器楽の演奏者は囃子方として笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方などの専門分野に分かれる。
能楽界は江戸時代から続く分業制度が厳然と守られている世界で、それぞれには流派があり、
役籍や流儀を変えることは原則的に認められないという。
演奏者たる囃子方についてはさもありなんと思えるし、狂言はそれ自体が独立した演目を持っている
ことなどからが分かれているのも何とか理解できそうである。
しかし前述のようにシテ方が絶対的な立場を持つ中の
「ワキ方」が長い歴史の中でその存在意義をどのように持ち続けられたのかとの疑問が残った。
(この件は、後に明かされることになるのだが・・・)
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