前々スレッドで能楽師・ワキ方の価値観について触れた。
この疑問にずばり答えてくれて興味深いのが本書
「ワキから見る能世界」
(安田登 著、生活人新書)である。
またまた序章からの抜粋・・・。
よくシテは主役、ワキは脇役と言われる。
が、本当はそんな単純なものではない。
シテが主役と言うのはいい。それは正しい。
問題はワキが脇役ということだ
・・・
今、私たちが脇役という言葉を使うときには、
副次的な役割を担う人と言う意味で使っている。
特にそれが比喩として使われる時にはもっとひどくなって、
「あの人は脇役だから」などと言われると、
もうそれはほとんど「端役」という意味になっている。・・・・
ところが、能のワキは
現代の演劇や映画で言われているような脇役では決してないし、
ましてや比喩として使われるような脇役では決してない。
ちなみに能の完成した室町時代の日本語には「ワキ」という言葉に
脇役などという意味はなかった。
ワキとは「横(の部分)」をさす。
体側の部分、着物で言うと脇の縫い目の部分が「ワキ」という言葉の古い用法だ。
これは、その場所(ワキ)が着物の前の部分と後の部分を
「分ける」ところだから「ワキ」だと言われるが、
この言葉から分かるようにワキは分ける、
古語で言えば「分く」というのが原義だ。・・・・・・
ただし、古語では同じ「分く」でも「分ける」人という意味と「分からせる」人という二つの意味になる。
ワキとは「分ける」人であり、そして「分からせる」人なのだ。
・・・・・
能のワキが「分からせる」のは何か、それはシテの正体だ。
旅人であるワキが、ある「ところ」に通りかかり、シテと出会うのが能の始まり・・・
しかし、その「ところ」にはワキだけでなく、さまざまな人が通りかかる。
・・・・
旅人が通りかかった「ところ」には、ずっと前から霊はいた。
しかし、それが見えるのがワキだけだったのだ。
そしてその霊は、そのままでは観客にも見えない。
その不可視の存在である幽霊、シテを、観客に「分からせる」、見せるのが
「ワキ」=「分からせる人」の役割なのだ。
・・・
次にワキのもう一つの役割、「分ける人」としてのワキを見ていこう。・・・
シテはその「ところ」に思いを残してこの世を去った霊魂だ。
残恨の思いのために成仏できずに、幾度となくこの世に、特にある「ところ」に出現する。
・・・
この世で充分に果たせなかった思い、あるいは語り尽くせなかった執心など、
いわゆる「残恨の思い」を誰かに聞いてもらいたい、
そして舞を舞うことによってその思いを昇華させたい、未完の行為を完成させたい、
すなわち思いを晴らしたいがためにこの世に出現するのだ。
思いを晴らすの「晴らす」とは「晴れ」という言葉からわかるように暗闇を明るく転換させることだ。
残恨の思いを、無意識の暗闇から蒼天の意識のもとに引き出すことを言う。
そしてシテの思いを晴らす手助けをするのがワキだ。
ワキはシテの残恨の思いを受止めて、その昇華作業(成仏)を助けるのだから能のワキは多くが僧だ。
しかも漂白の旅を続ける、一所不住の僧だ。
・・・・
乱れに乱れたその思いを整理して治めようとすればするほど、よけいにぐちゃぐちゃになる。
そこで必要なのは、そういうぐちゃぐちゃ状態を快刀乱麻を断つがごとく「分け」、
そして再統合する、そんな人の存在だ。
これがワキの第二の役割、「分ける人」としての役割だ。
・・・・
脇役などと言って無視するには、なかなか凄い力を持っている。
ワキはあくまでシテの語りを引き出すためにのみ存在する。
だから彼は自分のことをほとんど語らない。・・・・
しかし無名の彼でも、他の誰にも見えない、そういう亡霊と会うことができる。
無名の彼だからこそ、亡霊と出会い、異界と出会うことができるのだ。
なぜ、ワキは異界をここに引き寄せ、そして亡霊と出会うことが出来るのか・・・・・
私のような超初心者が口を挟む余地の全くないワキの存在価値論。
圧倒的でさえあったので、引用文そのままにさせてもらいました。
能の魅力を深める上で、極めて重要な切り口であると思いましたが、
この先は私自身をもう少し深めないと読み取れない部分でもありますすので、
次の機会にしたいと思います。
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